戸塚宿を行く

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戸塚パルソ通信@メール 第37号

戸塚宿を行く

vol.014-01

末広がりで縁起がいい?戸塚の八つの八幡様1

冨塚八幡宮から発祥したと言われる「とつか」の地名。戸塚とは何かと縁の深い八幡様を巡ってみました。

○戸塚「八」八幡めぐりをしよう。

戸塚の地名の発祥である冨塚八幡宮は、「戸塚宿をゆく」の第1回で取り上げさせていただきました。
>>「戸塚」発祥の地 冨塚八幡宮

神奈川県神社庁のホームページによると、戸塚区内には八つの八幡を名乗る神社が鎮座していることがわかりました。「八」幡様が「八」社とは末広がりにも末広がりで縁起が良いではありませんか。
戸塚区全体で登録されている神社が32なので、その1/4が八幡様ということになります。近隣各区をみても、泉区、瀬谷区には八幡様はそれぞれ1社しか無く、磯子区は3社、金沢区は2社、港南区に至っては0と、戸塚には八幡様が圧倒的に多いのです。

○八幡様に関するあれこれ。

後三年合戦絵詞に描かれた八幡太郎義家

八幡宮、八幡神社など、八幡と名乗る神社は全国に44000社を越えるそうで、日本最大と言われています。ご祭神は主に誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇で、神仏習合の時代には「八幡大菩薩」とも呼ばれました。北畠親房によると八幡とは元は「やはた」であり、数多くの幡をたなびかせて軍隊が行進する様子の神格化ともいわれます。

冨塚八幡宮を開いたといわれる源義家は、京都の石清水八幡宮で元服した為、「八幡太郎」の別名で知られます。義家の武勇は武士たちのあこがれとなり、また、源氏を発展させた八幡太郎にあやかって、八幡宮は源氏の守り神として篤く信仰されました。源頼朝は、鎌倉に豪壮な鶴岡八幡宮を建立し、源平合戦の屋島の戦いで那須与一が扇を射る時に唱えるのが「南無八幡大菩薩」です。

戦国時代でも八幡太郎の人気は衰えません。徳川家康の「家」の字の由来は諸説あるものの、武士の棟梁になるべく、源義家にあやかったというのが有力です。
徳川家康にとって、大ファンだった八幡太郎義家とゆかりの深い戸塚には、深い思い入れがあったかもしてません。

今回はまず、8社のうち戸塚駅に比較的近い3社を巡ってみました。

○冨塚八幡宮

なんといっても「とつか」発祥の地。地名の元であるだけでなく、全国の「戸塚」「冨塚」姓一族の氏神でもあるとか。

>>「戸塚」発祥の地 冨塚八幡宮

○八幡大神(東峰八幡 とうのみねはちまん)

伝承によれば永久2年(西暦1114年)、最初は中打越に建立されたといいます。八幡太郎の没後5年のこと。建立から650年後の江戸時代、明和2年(西暦1765年)に現在地に遷座しました。境内の椎木は、横浜市指定の名木古木となっている見事な大木。木陰で八幡太郎が奥州下向の際に休息したと伝えられていることから源氏の白旗にちなんで「白旗の椎」と呼ばれています。 東峰八幡の別名があり、江戸時代は吉田町の鎮守でした。
参道には見事な桜の大木がならび、鳥居前には、大江匡房(源義家に兵法を教示した)の碑も建っています。

本殿前にそびえる椎木(シイノキ)

鳥居と大江昌匡房の碑、参道

○八幡社(街山八幡社 つじやまはちまんしゃ)

創建年代不明。応永年間(1394年〜1427年)といわれています。応永は南北朝が合一したばかりで、戦乱の多かった室町時代にしては穏やかだった時期。新田義貞の嫡子、新田義宗が護持していた八幡大菩薩の神像を奉祀したのが始まりとされます。
新田氏は、徳川家の先祖ということになっていますので、八幡太郎とは別の意味で重要な場所と考えられたかもしれません。戦国時代から江戸時代に掛けては矢部(谷部)の鎮守。
本覚院不動明王や梅園稲荷社など興味深いエピソードを多く持つ境内社があるのも特徴。

神仏習合時代の名残。不動明王が祀られている。

八幡大菩薩の神像が最初奉祀された場所だという霊水池。

次回は戸塚の八幡様、残りの5社を巡ります。


参考:とつか歴史探訪(戸塚見知楽会 2011年発行)

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